ハイジュエラーMIKIMOTOについて

世界初となる養殖真珠の成功

創業者 御木本幸吉が、世界で初めて真珠の養殖に成功したのは1893年のこと。それまで、偶然の産物で大変希少だった天然真珠は、一部の特権階級の人のみが楽しむことのできる宝石でした。そのため母貝となるアコヤ貝は乱獲が横行。絶滅の危機に瀕する状態になっていました。
幸吉は自身の地元である伊勢志摩での乱獲に心を痛め、美しい自然を守ろうと真珠養殖に挑戦。度重なる苦労の末、人の手で真珠を作り出すことに成功したのでした。

世界初となる養殖真珠の成功

銀座出店から世界の舞台へ

1899年、西洋文化の中心地である銀座に「御木本真珠店」を出店。当初より海外の様々な万博に真珠を使ったジュエリーや工芸品を積極的に出展し、英文の新聞、雑誌に広告を掲載することで、御木本の真珠は日本の特産品として知られるようになりました。外国人客で活況を呈する真珠店は、海外市場に目を向けていた御木本幸吉にとって新たな事業拡大の拠点に。そして積極的に海外進出も開始し、1913年のロンドン支店の開設を皮切りに欧米、アジアへと次々と市場を開拓していきました。
ヨーロッパでは養殖真珠の普及により真珠の価格の暴落を危惧した宝石商により、「養殖真珠は偽物」であるとミキモト排斥運動が起きる事態に。しかし「パリ真珠裁判」(1924年)は勝訴し、逆に養殖真珠の信用価値を高める結果になりました。1927年には渋沢栄一からの紹介状を持ち、発明王エジソン宅を訪問。会談の様子はニューヨークタイムズの記事になり、欧米でのMIKIMOTOブランド認知はさらに拡大していきました。

銀座出店から世界の舞台へ

近代宝飾産業の礎を築く

「真珠はジュエリーになってこそ価値がある」という考えのもと、御木本幸吉は起業家としての才能も発揮。まだ西洋のジュエリー文化が日本に浸透していない時代に、ジュエリーデザインと製作技術を習得させるべくヨーロッパへ優秀な人材を派遣し、1907年に日本初となる本格的な装身具加工工場(現:株式会社ミキモト装身具)を開設しました。
また、日本の伝統的なモチーフや錺職の技に、ヨーロッパのジュエリーデザインや製作技術を融合した独自の様式「ミキモトスタイル」を確立。1911年にはベルギーに技術者を派遣してダイアモンドの研磨機などを持ち帰らせたほか、地金加工技術をいち早く習得させるなどして日本の近代宝飾史の道を切り開いたのです。 現在も創業当初から磨き続けられてきた確かな技で、クラフツマン達がMIKIMOTOのジュエリー製作を支えています。

大正時代のMIKIMOTO製ペンダント復刻版の写真

大正時代のMIKIMOTO製ペンダント復刻版

店舗展開と海外マーケット

現在MIKIMOTOでは、国内に6つの直営店と約60店舗の委託店、海外はアメリカ、ロンドン、パリをはじめ8カ国、約40店舗でお客様をお迎えしています。アメリカのニューヨーク五番街の店舗は、2021年に移転増床リニューアル。世界中のブランドが出店を憧れるハイジュエラーの聖地、パリ・ヴァンドーム広場においては、東洋で唯一出店を許されたハイジュエラーとなっています。
2018年には、世界のファッション界を牽引してきた高級メゾンが名を連ねる「フランス・オートクチュール連盟」の宝飾部門への加盟や、国籍や性別の枠を越えたグローバルブランドアンバサダーを起用するなど、グローバルマーケットを意識した取り組みも積極的に行っています。

店舗展開と海外マーケット
  • ロンドン店
    ロンドン店
  • パリ店
    パリ店
  • ニューヨーク店
    ニューヨーク店
  • リーガーデンズ店
    リーガーデンズ店

多彩なジュエリーで世界を魅了

MIKIMOTOは創業以来、素材調達からジュエリー製作まで全ての工程で厳格なまでの品質管理体制を敷き、最高品質のジュエリーをお届けしています。
養殖真珠や天然真珠、ダイアモンドから色とりどりの貴石など使用する素材は実に多彩で、商品価格帯は数万円から数億円まで幅広くご用意しています。
1905年に創業者が明治天皇に申し上げた「世界中の女性の首を真珠で飾って御覧にいれます」という言葉が現実のものとなった今、世界中の全ての人々にジュエリーを楽しんでいただくために、ジェンダーレスに着用していただけるデザインの開発や若年層に向けたマーケティング活動をグローバルに実施しています。

多彩なジュエリーで世界を魅了